藤原備前三代

備前焼陶芸家藤原和、人間国宝の祖父 藤原啓、人間国宝の父 藤原雄の足跡を追い今を伝える

藤原雄 - kei fuziwara

藤原 雄

昭和7年 - 平成8年

(1932 - 1996)

一九三二年、藤原雄は、その後に人間国宝となる備前焼作家・藤原啓の長男として、現在の備前市穂浪に生まれた。
父がそうであったように文学や音楽に熱中するといった多感な青年時代を過ごし、一九五五年(昭和三十年)に大学を卒業後一旦は出版社に就職するが、やがて父に師事し、備前焼の世界に入り、一九九六年(平成八年)に人間国宝となった。 円熟しているが自由。角々しくない優しさ、自己主張ではなくて、観る方が何かをその中から感じとることができる要素。彼の作品は彼自身に内包される感性と同様、様々に評される。「そこにあたたかさとか、やさしさとか、強さとか、豪放さとか、そういうものを想像させる焼物。…それがあることで精神的にあたたかみを感じるような焼物。そういうものをつくらなければいけない」それが陶芸家の使命である、と彼は言っている。

彼にハンディがあったことは意外に知られていない。
右目0.03、左目はまったく見えないのである。そんな雄に先見性ある道筋をつけてくれた人は父である。無理だと言われた普通学校も東京の大学への進学も断固として薦めたのである。その決断が、「人の愛情を普通人の三倍にも五倍にも感じられる反面、普通のことが三倍も五倍も腹の立つ」強い感受性と正義感を育てた。中学・高校では新聞部や文学部の部長を務め、文学や音楽に熱中し傾倒した。 大学を卒業後、東京のみすず書房という出版社で雑誌記者をしていた雄に「備前へ帰って備前の土になれ」と言ってくれたのは小山富士夫。彼の陶芸の美学の師である。父の友人であり陶芸の哲学の師には、北大路魯山人がいる。雄が形に拘って作っていた器を見て、魯山人はまだやわらかい口のところをひょいとつまんでみせた。「粋」を学んだ瞬間であった。社会へ出てからは、川喜多半泥子、藤本能道、田村耕一や裏千家家元の千宗室匠他、女優、TVプロデューサー、詩人そして自ら認める食通であることから各国のシェフ等各界の人々とも親交を暖め、その美学を深めるのである。 各国で個展を開き、棟方志功と一緒になったダートマス大学の客員教授時代には焼物の愛し方を教える。メトロポリタン、ブルックリン他アメリカの美術館にも作品は展示され、大英博物館にも入ることになる。 自らの焼物観を彼はこう語る。

「古いと言われても、伝統的すぎると言われても、時代の推移に安易に迎合するのではなくて、時代の変化は感じながらも、しかし、普遍的な美しさと言うか、一万年前も一兆年後も変らない価値をめざしていこう」と。








藤原雄 プロフィール


昭和七年(1932)
六月十日、藤原 啓、勝代の長男として岡山県和気郡伊里村穂浪井田五三六(現、備前市)に生まれる。
昭和十四年(1939)7歳
四月、伊里高等小学校に入学昭和二十年三月、同校卒業。
昭和二十年(1945)13歳
四月、岡山県立閑谷中学校入学。昭和二十二年(1947)学制改革により、新制閑谷中学校となる。クラブ活動では新聞部に籍を置く。
昭和二十三年(1948)16歳
四月、新制閑谷高等学校に入学。昭和二十五年(1950)学制改革により、和気閑谷高等学校と校名変更、文芸部に籍を置き、また新聞部長を務める。昭和二十六年三月、和気閑谷高校を卒業。
昭和二十六年(1951)19歳
四月、明治大学文学部日本文学科に入学。東京都目黒区平町に下宿する。
昭和二十八年(1953)21歳
下宿を大田区久ヶ馬、品川区中延とかえる。明大文芸の同人となり、「東京の女の子」「北へ帰る」の短篇を誌上に発表する。
昭和三十年(1955)23歳
四月、渡辺憲一郎先生の紹介でみすず書房に入る。九月、父啓の病気看病のため、みすず書房を休職し、郷里、岡山に帰る。父の病気全快後、その助手として備前焼の修行を始める。
昭和三十二年(1957)25歳
十月二十五日、太田寿雄、美寿の次女、紀美子と黒住教本部で結婚。
昭和三十三年(1958)26歳
春、朝日新聞社主催「現代日本陶芸展」、「全関西美術展」に入選(花器)。秋、「日本伝統工芸展」に初入選、受賞候補となり、作品(大徳利)が伝統工芸展のポスターとなる。
十二月六日、長男、和生まれる。
昭和三十五年(1960)28歳
一水会展出品、一水会賞受賞、一水会会員に推挙される。初の個展を岡山天満屋、東京三越で開催。
昭和三十六年(1961)29歳
日本工芸会より正会員に認定される。
九月十八日、長女、晴美誕生。
昭和三十七年(1962)30歳
名古屋松坂屋における「現代陶芸代表作家展」、東京国立近代美術館主催の「現代陶芸展」に招待出品。二回目の個展を、東京三越、岡山天満屋で開催。
昭和三十八年(1963)31歳
スペイン・バルセロナにおける「国際陶芸展」に招待出品、大賞受賞。岡山の池田動物園に噴水およびオブジェを制作。
昭和三十九年(1964)32歳
一月から九月までアメリカ、カナダ、メキシコ、スペインの大学などで備前焼の講座を持つ。特にアメリカ(現代陶芸美術館)カナダ(ポイントクレーヤー)では海外初の個展を開く。またアメリカ・コロンビア大学での第一回国際工芸家会議に日本代表として出席し備前焼の解説をする。東京国立近代美術館で開かれた「現代陶芸展」に招待出品。岡山天満屋で三回目の個展を開く。
昭和四十年(1965)33歳
アメリカ・ダートマス大学から招かれ、妻紀美子と渡米。備前焼の講座を持ち、ダートマス大学美術館、ニュウーヨーク現代陶芸美術館で個展を開催。帰路、メキシコ、ペルー等を巡る。帰国後、東京三越で帰国展開催。なお同年、ダートマス大学、メトロポリタン美術館、ニューヨーク近代美術館、シカゴ美術館に作品を寄贈。
昭和四十一年(1966)34歳
五島美術館主催の「選抜作家展」に招待され、個展を開く。サンフランシスコ大学夏期大学の講師となる。東京三越で四回目の個展を開く。
昭和四十二年(1967)35歳
昭和四十一年度最優秀作家として日本陶磁協会受賞。同年より毎日新聞社主催「国際芸術見本市展」に招待出品する。秋、岡山天満屋で四回目の個展。
昭和四十三年(1968)36歳
京都国立近代美術館主催「陶芸の新世代展」に招待出品。メキシコにおける「芸術見本市展」、イタリア・トリノにおける「国際陶芸展」に招待出品。東京三越で五回目個展、姫路山陽で第一回個展。
昭和四十六年(1971)39歳
毎日新聞社主催「日本陶芸展」に招待出品。同展の海外派遣展にも出品する。東京高島屋、神戸大丸で「藤原啓・雄父子展」、名古屋丸栄で個展。
昭和四十七年(1972)40歳
四月、岡山天満屋で「百壺展」開催。五月、「ファインツア国際陶芸展」に大壺を招待出品する。
昭和四十八年(1973)41歳
金重陶陽賞受賞。オーストラリア政府及び陶芸協会より招かれ、シドニー工芸学校、シドニー大学などで備前焼の講座を三ヵ月間持つ。
昭和四十九年(1974)42歳
東京・赤坂迎賓館に茶碗買い上げとなる。東京高島屋で「百壺展」開催。玉島中央病院に『集い』、備前市役所に『市民の目』と題するレリーフを制作。
昭和五十年(1975)43歳
岡山天満屋で「徳利とくり展」、グリーンギャラリーで「鉢30選展」、岐阜近鉄、名古屋丸栄、大阪高島屋、広島天満屋(壺30選)で個展開催。岡山県文化奨励賞受賞。岡山ターミナルホテルに『花のささやき』、玉島病院に『XYZ』と題するレリーフ制作。ヨーロッパにおける「古備前と啓・雄展」打ち合わせのため渡仏。
昭和五十一年(1976)44歳
岡山県美術展、伝統工芸中国展の審査員となる。フランス(パリ、ボルドー、マルセーユ、レンヌ)における「古備前と藤原啓・雄父子展」オープニングパーティーのため四回渡仏。グリーンギャラリーで「酒杯と小壺展」、神戸大丸「50壺展」、姫路山陽「壺展」開催。なお、フランス日本大使館、ボルドー美術館、カンティーヌ美術館、レンヌ美術館、チェネルスチ美術館に作品を寄贈。
昭和五十二年(1977)45歳
ブリュッセル(ベルギー)の王立歴史博物館、ニューシャテル(スイス)の美術館で、「古備前と啓・雄父子展」開催。渡欧。東京高島屋で「百徳展」、グリーンギャラリーで「鉢20選展」、大阪高島屋で「70壺展」、広島天満屋で「花入50選展」、岡山天満屋で個展開催。高野山金剛峯寺花入れ献納。
財団法人備前陶芸会館(昭和六十二年から備前陶芸美術館と改称)常務理事、財団法人藤原啓記念副理事長となる。
昭和五十三年(1978)46歳
旭川荘にレリーフ『生きる』制作。札幌今井、柿伝ギャラリー、静岡西武、沼津西武、名古屋丸栄、福山天満屋で個展。姫路山陽で「父子展」、岡山高島屋で「一門展」開催。
昭和五十四年(1979)47歳
神戸大丸、岡山天満屋で「百花展」、広島天満屋で「水指展」開催。札幌そごうで「啓・雄父子展」、岐阜近鉄で個展開催。
昭和五十五年(1980)48歳
中日国際陶芸展審査員に就任。四月、岡山県から重要無形文化財作家の指定を受ける。岡山県に重要文化財指定を記念して大壺を納める。西大寺商工会議所会館のためにレリーフ『会陽の夜』制作。東京高島屋で「百華展」開催。松本永眞堂、熊本鶴屋で「啓・雄・恭助父子三人展」、大阪高島屋で「花器50選展」、姫路山陽で「大壺50選展」、岡山天満屋で「重要無形文化財指定記念展」、神戸香雪美術館で同館・朝日新聞社主催「藤原啓・雄名品展」開催。
昭和五十六年(1981)49歳
札幌そごう、名古屋丸栄、鳥取大丸、広島天満屋(花器70選展)で個展。東京高島屋で「啓酔会展」、甲府岡島で「啓・雄父子展」開催。備前東高校にレリーフ『いのちの限り』を制作。
昭和五十七年(1982)50歳
厳島神社宝物殿に壺献納。山形大沼で「啓・雄父子展」、神戸大丸で「大壺30選展」、松江一畑、岡山天満屋(百鉢展)三原天満屋、熊本鶴屋で個展、大阪高島屋で「啓酔会展」開催。
昭和五十八年(1983)51歳
広島天満屋で「華器70選展」、大阪高島屋で「花入70選展」、仙台藤崎、東京高島屋(百鉢展)、名古屋丸栄、京都高島屋、鳥取大丸、米子高島屋、姫路山陽(鉢60選展)で個展開催。ニューサウスウェールズ州立美術館(オーストラリア・シドニー)及びカンタベリー美術館(ニュージーランド・クライストチャーチ)に作品寄贈。北京の日本大使館にも作品を納める。京都知恩院に啓・雄・和三代の作品を献納。
昭和五十九年(1984)52歳
一月、山陽新聞賞(文化功労)受賞。伊勢神宮に壺献納。山陽新聞社に文化功労賞受賞記念として壺を納める。横浜高島屋、福山天満屋、下関大丸、新居浜大丸、博多玉屋、沖縄リュウボウで個展。井原市立田中館に作品五点寄贈。
昭和六十年(1985)53歳
岡山県立文化賞受賞。紺受褒章受賞。広島市へ作品十点寄贈。山陽新聞賞・岡山文化賞受賞記念「藤原雄作陶三十年の歩み展」を山陽新聞社主催により岡山天満屋で開催。札幌そごう、八戸丸栄、長岡大和、神戸大丸、松江一畑、熊本鶴屋で個展。東京有楽町阪急で「中里太郎右衛門・藤原雄二人展」開催。東京高島屋で「啓酔会展」。広島・広越本社ビルにレリーフ『あけぼの』を制作。
昭和六十一年(1986)54歳
岡山日々新聞よりオカニチ芸術文化功労賞を受賞。中国新聞社より中国文化賞受賞。新潟三越、金沢大和、岐阜近鉄、姫路山陽、三原天満屋、松山そごう、鹿児島三越などで個展。北海道立近代美術館に透し紋大壺を寄贈、広島市役所、中国新聞社にも壺などを寄贈。岡山大付属病院に『よろこび、太陽に向かって』、岡山理大に『原、日月に祈る』と題するオブジェ、レリーフを制作。
昭和六十二年(1987)55歳
レリーフ『幼想のオリエント』(東予市・オリエント八勝亭)、『大洋に向かって』(いわき明星大学)、『瀬戸内の四季及び瀬戸の日の出』(日銀岡山支店)を制作。いわき大黒屋、宇都宮上野、川越丸広、長野東急、博多玉屋、沖縄リュウボウで個展。六月、中国文化賞受賞記念「藤原雄の世界展」を中国新聞社主催により広島天満屋で開催。十月二十九日から十一月二十四日まで東京高島屋、大阪高島屋、姫路山陽、名古屋丸栄で朝日新聞社主催「備前・藤原雄自選展」を開催。
昭和六十三年(1988)56歳
五月韓国国立現代美術館で日本人として初めて「備前一千年、そして今、藤原雄の世界展」を開催。十一月、ウィーンで、バワゥッグ美術財団の招待により個展を開催。日本工芸会理事及び中国支部幹事長、備前陶友会副理事長に就任。
平成元年(1989)57歳
五月、広島で『広島国際会議場レリーフ制作記念一広島賛歌一藤原雄展」開催。
平成二年(1990)58歳
三月、芸術選奨文部大臣賞を受賞。七月、広島・御幸橋に大モニュメントを制作。
平成三年(1991)59歳
十二月、東京銀座・王子製紙本社ロビーにレリーフ「森の響」を制作。
平成四年(1992)60歳
一月、大徳寺聚光院へ「花入」「燭台」を奉納。二月、中国銀行新本店十一階貴賓室にレリーフ「燦々」を制作。二月、英国大英博物館に「擂座大壺」「窯変花入」を展示。四月、明星大学青梅キャンパスにレリーフ「明星より世界を」を制作。十二月、三越札幌店で「土と炎の芸術 藤原雄展」開催。
平成五年(1993)61歳
「藤原三代展」を開催。
平成六年(1994)62歳
十二月、ホテルグランヴィア岡山、レリーフ「宴」を制作する。
平成七年(1995)63歳
九月、日本学士会よりアカデミア芸術文化賞受賞。
平成八年(1996)64歳
四月、国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。