明治三十二年(1899)  二月二十八日、岡山県和気郡伊里村穂浪字井田(現、備前市)で農業藤原伊三郎、世為の三男として生まれる。本名啓二
明治三十八年(1905) 6歳 四月、伊里尋常高等小学校に入学。
明治四十二年(1909) 10歳 「名月や掉さしかねて流す舟」の俳句を実業之日本社の「日本少年」に応募して一等となる。
大正二年(1913) 14歳 伊里尋常高等小学校高等科を卒業。私立中学閑谷黌に入学する。
大正四年(1915) 16歳 博物館の「文章世界」に短文を応募し一等となる。また新進の詩人として人気のあった西条八十にあこがれて詩も書くよううになる。
大正七年(1918) 19歳 八月末から、伊部尋常高等小学校や日生尋常小学校の代用教員となる。
大正八年(1919) 20歳 八月、代用教員の職を辞め郷里を出奔、神戸の賀川豊彦のもとに走る。文友平田晋作、島田清次郎、津村京村らもここに集まり、社会問題を論じる前にまず実践せよと、大阪砲兵工廠の労働者となって働く。さらに、京都大学哲学科教授厨川白村の家に身を寄せ、また、西田天香主宰の一灯園でもしばらく居候となる。博文館で「文章世界」の編集長をしていた加納作次郎に東京での就職を依頼、「すぐこい」との返事で上京する。
大正九年(1920) 21歳 徴兵検査のため帰郷したが、軍縮時代のおかげで兵役をまぬがれる。再び上京、博文館での仕事を続ける。秋、神奈川県大磯に正宗白鳥を訪ねる。ここで白鳥から坪内逍遥への紹介状をもらう。
大正十年(1921) 22歳 四月、坪内逍遥のすすめで早稲田大学英文科に聴講生として入学し、横光利一らとシェークスピア文学を専攻。また、逍遥が主宰する劇研に入り、久世山で催された野外ページェントに参加する。
大正十一年(1992) 23歳 抒情詩社から不二原啓二のペンネームで処女詩集「夕べの哀しみ」を出版。川端洋画研究所に通ってデッサンを習う。また、神楽坂のホーリネス教会で洗礼を受けてヨハネ・ケイの名をもらう。
大正十二年(1923) 24歳 早稲田大学野球部長であった安部磯雄を知ったことから、片山哲、河上丈太郎、水谷長三郎らと交友し、社会主義運動に身を投じる。さらに荒畑寒村にマルクスの思想を学んで共産主義運動にも参加、しばしば検束される。九月、帰郷中に関東大震災が起こり、飯田橋の下宿が焼ける。
大正十三年(1924) 25歳 一月二十六日、皇太子殿下ご成婚のパレードを宮城前で島田、平田らと参観し、大群衆の熱狂的万歳に思わず同調している自分を発見、それまでの運動を断念する。第二の詩集「壊滅の都市」を尚文堂から出版。
大正十五年(1926) 27歳 博文館の総編集長森下雨林と口論、博文館を飛び出す。
昭和二年(1927) 28歳 日活映画社の脚本部に入り、吉川英治原作のもの二本と下村悦夫原作のもの一本を手がける。秋、脚本部長大泉黒石と図り鈴木伝明を主役とした「夕映え」の脚本を書いて映画化したが、社長に無許可で製作したため、しかられ、ここも約一年でやめる。
昭和三年(1928) 29歳 生田春月と共著「ハイネの訳詩集」を新潮社から出版。同社の「婦人之国」の編集にたずさわる。
昭和五年(1930) 31歳 春、再び博文館に戻り「新青年」の編集についたが、人に使われることに疑問をいだくようになり、独立するため博文館を去る。以後、フリーの文筆家として、穂浪健児のペンネームで詩文、随筆、雑文などを雑誌に寄せ、地方新聞に小説を書いて生活する。
昭和六年(1931) 32歳 五月十九日、岡山県勝田郡飯岡村王子の農業赤畠近平、小梅の三女勝代と見合い結婚し、家を郷里の穂浪字井田にかまえる。しかし、家をあけることが多く、ほとんど東京で過ごす。
昭和七年(1932) 33歳 六月十日、長男雄誕生。
昭和十二年(1937) 38歳 文学志望としては落第生であり、思想的にも敗残者であるという自覚から強度の神経衰弱となり、東京での生活を断念、郷里に引き揚げ静養する。
昭和十三年(1938) 39歳 神経の病は急速に快方に向かう。この年、穂浪存住の正宗白鳥の弟で万葉学者の正宗敦夫から、備前焼でも焼いてみたらとすすめられる。敦夫の世話で、穂浪から伊部の窯場に通っていた陶工三村梅景を知り、築窯、原土の入手、ロクロ成形などの指導を受ける。


昭和十四年(1939) 40歳 春、初窯を焚く。造って焼くことに無上の感激と喜びを感じ、以後、必ず春・秋二回窯を焚くことを心に誓う。五月三十日、次男恭介誕生。生活は火の車となり、そのため地方新聞に随筆や小説を書く。
昭和十六年(1941) 42歳 金重陶陽と親しくなり、その指導により備前焼の焼成法が進展する。
昭和十七年(1942) 43歳 備前焼研究家桂又三郎のあっせんで、第一回個展を岡山市の禁酒会館で開く。
昭和二十三年(1948) 49歳 国の指定による丸技作家の資格を受ける。この時、資格を与えられたのは備前焼では金重陶陽、山本陶秀、藤原啓の三人だけであったことから大いに自信をもつようになり、作陶一筋の決意を固める。
昭和二十四年(1949) 50歳 岡山県文化連盟賞を受賞する。
昭和二十八年(1953) 54歳 初めて東京にデビューし、東京日本橋の壼中居で個展を開く。
昭和二十九年(1954) 55歳 春、北大路魯山人のあっせんにより、東京日本橋の高島屋で個展を開く。
昭和三十年(1955) 56歳 春、東京日本橋の三越で個展を開催。岡山市の天満屋でもこの年から隔年ごとに個展を開くようになる。病気で入院したのを機会に、長男雄が帰郷し備前焼に取り組み始める。
昭和三十一年(1956) 57歳 十月、第三回日本伝統工芸展に゛備前平水指゛を出品。日本工芸会正会員に推される。
昭和三十二年(1957) 58歳 岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定される。十月、第四回日本伝統工芸展に゛備前焼壼゛を出品。
昭和三十三年(1958) 59歳 日本工芸会理事に推される。以後三十五年まで理事を務める。十月、第五回日本伝統工芸展に゛備前平鉢゛を出品。
昭和三十七年(1952) 63歳 五月、プラハ(チェコスロバキア)とジュネーブ(スイス)で開かれた国際陶磁アカデミー会議に出席。同時に開催されたプラハ国際陶芸展で金賞を受賞。ヨーロッパ、中近東諸国を巡って帰国する。九月、第九回日本伝統工芸展に゛備前平水指゛を出品。
昭和三十八年(1963) 64歳 一月、山陽新聞社から山陽新聞賞を受ける。五月、岡山県文化賞を受賞。プラハ受賞作品゛備前壼゛がローマ日本文化館に納まる。十一月、中国新聞社から中国文化賞を受ける。
昭和三十九年(1964) 65歳 東京国立近代美術館、朝日新聞社共催「現代国際陶芸展」に゛備前壼゛を招待出品。第十一回日本伝統工芸展に゛備前水盤゛を出品する。
昭和四十年(1965) 66歳 九月、中南米へ旅行。マヤやインカの文明を見学して帰国。十月、第十二回日本伝統工芸展に゛備前大皿゛を出品。
昭和四十三年(1968) 69歳 古希を迎え、その記念展を東京日本橋の三越で開く。
昭和四十四年(1969) 70歳 三月、新宮殿に゛擂座壼゛一対を納める。九月、第十六回日本伝統工芸展に゛備前擂座壼゛を出品。十一月、研光社から中村昭夫撮影の「備前・藤原啓」を出版。同時に岡山県の天満屋で「藤原啓回顧展」を開催。
昭和四十五年(1970) 71歳 四月二十五日、文化財保護委員会から「備前焼」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。7月、豪雨による山くずれで穂浪字井田の工房と家が壊れ、一時、長男雄の穂浪西灘の家に移る。九月、第十七回日本伝統工芸展に゛備前平水指゛を出品。
昭和四十六年(1971) 72歳 春、備前市穂浪三八六三の地に新居を建てる。勲四等旭日章を受ける。六月、毎日新聞社主催「第一回日本陶芸展」に゛備前壼゛を招待出品。7月、妻を伴ってハワイへ旅行。九月、第十八回日本伝統工芸展に゛備前徳利形壼゛を出品。このころから軽い脳軟化症のため病院に約一ヶ月入院。
昭和四十八年(1973) 74歳 六月、「第二回日本陶芸展」に゛備前大徳利゛を招待出品。岡山高島屋で「平櫛田中・藤原啓二人展」を開催。八月、岡山県から三木記念賞を受ける。九月、第二十回日本伝統工芸展の鑑査員となり゛備前水指゛を出品する。十一月、講談社から「藤原啓備前作品集」を出版。
昭和四十九年(1974) 75歳 二月、岡山天満屋で「藤原啓喜寿記念展」を開催する。十月、第二十一回日本伝統工芸展に゛備前花入゛を出品。
昭和五十年(1975) 76歳 迎賓館に゛備前水指゛゛備前花入゛を納める。九月、第二十二回日本伝統工芸展の鑑査員となり゛備前徳利゛を出品。
昭和五十一年(1976) 77歳 一月、備前市から初の名誉市民に推される。四月、岡山天満屋の葦川会館で「古備前と藤原啓・雄父子陶芸展」を開催。この展覧会がフランス、スイス、ベルギー三カ国を巡回することになり、四月から約一ヶ月間、ヨーロッパにおもむく。九月、東京日本橋の高島屋で朝日新聞主催により喜寿記念「藤原啓自選展」を開催。十一月、岡山の山陽新聞画廊で「唐津茶碗―荒川豊蔵・小山冨士夫・藤原啓合作展」を開催。
昭和五十二年(1977) 78歳 三月、ブリッセルでの「古備前と藤原啓・雄展」閉会式出席のため渡欧。7月、東京高島屋で朝日新聞社主催により「ヨーロッパ巡回帰国記念藤原啓・雄展」を開催。八月、岡山天満屋で山陽新聞社主催により同展を開く。十月、自宅の敷地内に財団法人「藤原啓記念館」完成。作品を寄贈し、一般に展示公開する。
昭和五十三年(1978) 79歳 春、岡山高島屋で「藤原啓一門展」を長男雄、次男恭助、弟子たちと開催。十月、旧宅跡に備前の有志により、藤原啓記念碑が建立される。また同所に藤原啓記念小庭園がつくられる。
昭和五十四年(1979) 80歳 一月、傘寿記念展を岡山天満屋、姫路山陽、東京高島屋で開催。
昭和五十五年(1980) 81歳 岡山県郷土文化財団に自作三十点を贈呈。藤原啓記念館会館三周年を記念して小庭園に歌碑を建立。
昭和五十六年(1981) 82歳 一月から三月にかけ東京高島屋、大阪高島屋、姫路山陽、広島天満屋で朝日新聞社主催により「藤原啓のすべて展」を開催。十月、朝日新聞社から「藤原啓自選作品集」を出版。十一月、高畑浅次郎、土光敏夫とともに岡山県で初めての名誉県民に選ばれる。
昭和五十七年(1982) 83歳 九月から十月にかけて、日本経済新聞文化欄に「私の履歴書」を連載。右足手術のため、岡山大学付属病院に入院。四月、岡山天満屋で山陽新聞社主催「藤原啓の世界展」を開催。十月から十二月にかけて、記念館で、開催五周年記念「藤原啓の交友展」を開催。またこの年、藤原啓記念賞を設立、昭和五十九年から優れた制作活動を示した陶芸家一人に隔年で贈ることになる。第一回受賞者は、走泥社同人の鈴木治。
昭和五十八年(1983) 84歳 十一月十二日、肝臓ガンのため、岡山大学付属病院で死去。同日、勲三等瑞宝章を受ける。十一月二十六日、告別式が備前市民葬として備前市市民センターで行われる。
昭和六十年(1985)  三回忌を記念して、十月から十一月にかけ東京高島屋、大阪高島屋、姫路山陽で朝日新聞社主催により備前の巨匠をしのぶ「藤原啓の世界展」が開催される。
平成五年(1993)  没後十年を記念し、中国新聞社・山陽新聞社の共同主催により広島・岡山の天満屋にて「藤原啓の作品と生涯」と題し記念展を開催。
平成十一年(1999)  生誕百年を記念して、朝日新聞社主催による「備前藤原啓-炎の詩」展を、東京・大阪各高島屋にて開催。中国新聞社・山陽新聞社共同主催で同展を広島・岡山の天満屋にて開催。